タカニチの歴史
政府が発表した国民車構想を受け、トヨタ自動車、髙島屋、日本発条が内装品を量産する会社設立に動き出した。
タカニチがここに誕生する。
髙島屋日発工業の誕生

戦後の日本政府は国産自動車産業確立のため、昭和30年に「国民車育成要綱案(いわゆる国民車構想)」を発表した。当時のトヨペット・クラウンなどの乗用車は高額で、社長や医者でもなければ一般国民には手も足も出なかった。構想の内容は、安価で最高時速100キロ以上、乗車定員4名、大きな修理なしで 100,000キロ以上走行可能など、「いつかは自家用車を持ちたい」、そんな夢をかなえてくれるクルマの開発が自動車メーカー各社ではじまった。
トヨタ自動車工業(現 トヨタ自動車)はこの構想をさらに具体化し、「パブリカ(大衆車という意味の造語)」を昭和36年に発売する。
このパブリカ発売の一年前、ある会議がトヨタで開催されていた。髙島屋とその子会社で家具や建造物内装を手がける髙島屋工作所(現 髙島屋スペースクリエイツ)、日本発条の四社が集まり、パブリカの内装品を生産する新会社を設立しようとしていた。そして、髙島屋工作所の内装技術と日本発条のスプリング技術を取り入れた内装品専門の量産メーカー「髙島屋日発工業株式会社(以下タカニチと呼ぶ)」が昭和35年12月27日、豊田市清水町(現 土橋工場)に誕生した。社名は、髙島屋、日本発条、トヨタ自動車工業の三社のそれぞれの社名を取り入れ命名された。
当時のクルマのシートは、現在のものに比べ実に簡単な構造だったが、設備も乏しく作業者の経験が皆無だったため、量産体制にはほど遠い状態であった。作業者はミシン縫製、シート組立、ドアトリム組立に分かれて、日々トレーニングと試行錯誤を繰り返した。そして、操業から納入開始までの3ヶ月間という短期間で、トヨタに認められる品質確保と、リードタイムの短縮を成し遂げたのであった。待ちに待ったシートの初出荷は、全社員が見守る中で行われた。「万歳!」「しっかり届けてくれよ」と大きな声援に包まれながら。
急速な事業拡大
パブリカの立ち上げに成功した後、日本を代表する高級サルーンとして今も君臨する「クラウン」の生産も開始した。昭和40年代に入るとマイカーブームも定着。軒並み自動車メーカーの生産台数も増え、タカニチでもトヨタの発展とともに、40年から45年までの5年間になんと4工場が建設された。
横須賀工場がその第一歩となった。関東地区への進出は、将来の国際化時代を見据え、関東の自動車メーカーからの新規受注でさらなる成長を狙ったものであった。昭和40年7月には無事操業を迎え、コロナ商用車、クラウン商用車、そして「ヨタハチ」の愛称で若者の心を捉えたトヨタスポーツ800のシート、およびドアトリムの生産がはじまった。
次は高岡工場の操業であった。昭和41年、トヨタが後に世界を代表する名車となる「カローラ」をファミリーカーとして新たに投入。タカニチでは開発段階から設計に参加するとともに、時代の流れを先取りする低コスト製品の開発に取り組んでいた。立ち上がり後、予想を上回る受注台数に対応できなくなり、新たな生産拠点として翌年、高岡工場が完成した。構想から操業までわずか7週間の超短期計画であった。その後、下山工場、東京工場が相次いで操業を開始した。
広がる世界のタカニチ
石油ショック後の危機を乗り切った日本経済は、ふたたび拡大基調をとりはじめる。自動車を中心とする輸出が好景気を見せるが、一方では膨大な貿易黒字を生み、貿易摩擦を激化させることにもなった。貿易黒字を少しでも解消し、為替変動に左右されない企業体質づくりを目指し、自動車メーカー各社がいっせいに海外進出。タカニチもそれに続いた。
平成2年8月、欧州での技術動向情報の収集を目的としたベルギー駐在員事務所を構えた後、平成7年からは中国を皮切りにベトナム、フィリピンでの本格生産に向けた新会社が設立された。中国での事業化は、モータリゼーションの兆しもあり、どこの会社も日本の技術を取り込もうと合弁事業を歓迎した。そして「泰州高日内飾件有限公司(平成九年撤退)」、「昆山高日内飾件有限公司」を立ち上げ、順調な生産開始を迎えた。このように中国を皮切りに世界に羽ばたいたタカニチは、全9カ国17拠点を展開していった。
技術開発の強化を図る
海外進出が進むにつれ、世界の内装部品メーカーと肩を並べる国際競争力が新たな課題となった。品質・コスト面で優位に立つとともに、開発主導型企業としてさらなる技術力が求められ、内装を一つのモジュールとして開発するシステムサプライヤーへの成長が必須となった。
この競争に勝ち抜くために、平成12年、藤岡工場(豊田市西中山町)の敷地内にテクニカルセンターを完成させた。デザイン、開発、設計から営業・調達部門までが集約された8階建てのこの建物には、協業部品メーカーとともに開発を進めるための大部屋が設けられ、システムサプライヤーとしてお客様のニーズに応えるための体制が整えられた。
平成15年6月、髙島屋日発工業から「タカニチ」に社名を変更する。筆頭株主の髙島屋が経営改革の一環として保有株をトヨタに譲渡したため、髙島屋の名前を外すことに。創業以来、親しまれてきた愛称「タカニチ」が正式な社名となった。
フォトアルバム

昭和36年に発売された「パブリカ(大衆車という意味の造語)」。
昭和30年に発表された「国民車育成要綱案(いわゆる国民車構想)」に基づき、トヨタ自動車工業が開発に取り組んだ。
安価で最高速度100キロ以上、乗組員4名、大きな修理なしで10万キロ以上走行可能などの条件を満たし、「いつかは自家用車を持ちたい」、そんな国民の夢をかなえてくれるクルマだった。

待ちに待ったパブリカ1号車のシートセット初出荷の光景。コロナバンに積まれ、全社員の見守る中、「万歳!」「しっかり届けてくれよ」と大きな声援に包まれて工場を出発していった。パブリカの内装品を手がける専門メーカーとしてスタートした「高島屋日発工業」だったが、設備も作業者の経験も乏しく、作業者は日々トレーニングと試行錯誤を繰り返し、ようやく迎えた初出荷ではそれぞれ万感の思いを胸にしていたことだろう。

操業開始時の横須賀工場
トヨタの発展とともに、昭和40年から45年までの5年間になんと4工場が建設された。写真は、その第一歩となった横須賀工場。昭和40年7月に操業を開始。
コロナ商用車、クラウン商用車、そして「ヨタハチ」の愛称で若者の間で心を捉えたトヨタスポーツ800のシート、およびドアトリムの生産が始まった。

タカニチは、平成2年8月ベルギー駐在員事務所を皮切りに、グローバル化を推進。平成7年には中国、ベトナム、フィリピンでの本格生産に向けた新会社「昆山高日内飾件有限公司」が設立された。
中国での事業化は、中国のモータリゼーションの兆しを背景として、我が国の技術力を取り込もうと、どこの会社でも合併事業を歓迎した。

平成12年藤岡工場(西加茂郡藤岡町)の敷地内に完成した、藤岡テクニカルセンター。グローバル化の進展の中で、内装を一つのモジュールとして開発するシステムサプライヤーへの成長が求められるようになったため、デザイン、開発、設計から営業・調達部門までを8階建ての建物にこれらの機能を集約した。協業部品メーカーと共に開発を進める大部屋が設けられ、システムサプライヤーとしてお客様のニーズに応えられるための体制が整えられた。
会社設立以来、クルマの内装品ひとすじで成長しつづけてきたタカニチは、お客様が求める多種多様なクルマの理想像を的確に捉え、その魅力創造にチャレンジし続けた。
2008年1月制作

